共働きサラリーマンの家計簿

アラサーの投資+雑記ブログ

おじいちゃんが亡くなって孫として思うこと

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朝6時に親から電話。

入院していた祖父が今日亡くなったということ、明日に通夜、明後日は葬式だから会社休んでなと。

 

最後にあったのは祖父の家。8月の暑い日だった。90にもなるじいさんは体調は相変わらずよくなくて痩せ細った体で震えた声で話をした。

僕の子供、ひ孫の名を呼んで、よう!と声をかけている所にお茶目な部分を感じた。

 

自営業をしていたころ毎週金曜日に祖父祖母と買い物に行くことは僕の週課だった。ばあさんはまだ元気だからよく爺さんに怒られていた。ただ仲の良い夫婦だと思った。

我慢がきかなくて思ったことをなんでも言う気丈なばあさんと

ぶっきらぼうで愛想がないじいさん。

爺さんは婿養子だったし、あんなばあさんだったから我慢することも多いだろうなと小さい頃から僕は思っていた。

 

最近は足の不自由な祖父と祖母の買い物によくいくようになった

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ただ買い物をしているとき、ご飯をたべているとき、夫婦の愛というか労わりみたいなものを感じる時がお互いにあった。ばあさんは爺さんの文句をよく言ったし爺さんもお前はうるさいとばあさんに怒っていたが変なとこで歯車は噛み合っていたんだろう。

 

そんな2人を買い物に連れて行くと親には介護に付き合っているとみられるようで感謝をされたが、僕は楽しかった。

世代が大きく離れている人とたまに接することは心に良かった。自分が背伸びする必要もないし。相手に合わせないでもいい。

そんな風に人と接する機会を持つ事を僕は他に知らなかったから。

 

戦争の話をよくしてくれたおじいちゃん 

爺さんはよく戦争の話をした。70年前にあった戦争の話をつい最近のことのように生き生きと話してくれた。等身大の戦争の話は面白かった。

 

じいさんいわく

・銃を扱う訓練の時はテンションがあがった。

・銃を掃除するのは面倒だった。

・死ぬ事は怖くなかったのに戦争の終了がラジオで流れると途端に恐怖を感じた。

 

こんな話を聞いてもわかるけれど爺さんは決して自分を誇張したりしなかったし、相手を威圧することもなかった。

ただ何というか愛想がなかったから損をした人だった。

 

おじいちゃんは不器用な人だった

親父が父の日にプレゼントをした時にも、後日あれは美味しくなかったと文句を言い親父はそれから父の日にプレゼントを送ることはなかった。

 

仕事でも何度となく親父に文句を言われていた。

人に対してノーと言えなかったり新しいことを常に嫌ったりと経営者の資質はあまりない人だったのかもしれない。

不器用な人だった

でもそんな爺さんだからこそ、自分勝手なばあさんと70年も添い遂げれたのだろうし何だかんだ会社は続いた。

爺さんはあまり感情を出さない人だったけど会社の事が好きなんだという気持ちは僕にも分かった。

 

 

僕が会社を辞める、もう爺さんに跡はつげないと話したとき爺さんは悲しそうに言った。

 

もう1年いてくれないかと。

 

僕はそれは無理だと言った。

そうか。と爺さんは答えた。

 

転職先がメーカーに決まりそれを伝えた週の金曜日、いつものように爺さんばあさんとスーパーに連れて行った。

スーパーのかごに自分のものなんていれない爺さんが珍しくものを手に取った。

転職先の製品だった。

ニコッとしてお前のとこのやと僕に言った。

次の日会うと、あれはダメだと文句ももれなく伝えてくれた。

僕はごめんと謝った。

 

帰りの車で僕は泣いた。

 

1年前の冬のことだ。

 

入院をしたおじいちゃんはついにボケはじめた

爺さんは最後にあった8月から容態が更に悪くなって入院をした。

環境が変わったことで爺さんはボケてきたようでその話を聞くのは辛かった。

それから3ヶ月もたたないことだった。今日が来るまでに。

 

もう1回会えば良かったのかなとふと思った。でもいつが最後だとしてもきっと後悔は残っただろう。

よく、爺さんは生き過ぎたと僕や家族に漏らした。

ただ家族からしたら生き過ぎたなんてないんだ。もっと戦争の話を聞けば良かったよ。

 

跡を継がなかった僕はきっといい孫じゃなかったよ。でもひ孫までみれたんだからチャラにしてくれてもいいだろ?

あなたの血は確実に僕の子供までは続くんだ。安心して休んでなよおじいちゃん。